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Re: 悟りに直結している“今”に在る状態

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月16日(木)03時00分11秒
返信・引用
  > No.31[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

> 中島タローさんへのお返事です。
>
> あなたのおっしゃる「悟りの状態」とは、仏教で言う「ヴィパッサナー瞑想の状態」と同じなのでしょうか?
> あなたのご説明からは全く同じように聞こえますが…?

ヴィパッサナー瞑想に関しましては、「今ここの自分の行為(例えば呼吸とか)に意識を集中させ、そ
れを有りのままに観察してゆくこと」という程度の理解しか持っておりませんが、この瞑想の狙いは分
かります。
悟りの状態には様々な側面が備わっており、その中の一つに「今ここに在るモノをありのままに見て
いる」という側面がありますが、これを体現することがヴィパッサナー瞑想の狙いであるはずです。
なのでヴィパッサナー瞑想の最終的な到達点は、悟りの状態のその「今ここに在るモノをありのままに
見ている」という側面を体現した状態だと考えられます。
あなたのおっしゃる「ヴィパッサナー瞑想の状態」なるものが他ならぬソレのことを指しているのであ
れば、前出のあなたのご質問に対する答えは「イエス」です。逆に申せば、ソレに到る前の段階にある
「ヴィパッサナー瞑想」では私の言う「悟りの状態」と同じにはならない、ということでもあるわけです
が。

ついでだから付け加えておきます。
それに関して押さえておいていただきたいのは、悟りの状態には様々な側面が備わっているが、その
全ては不可分の関係にある、ということです。ここに言う「その全ては不可分の関係にある」というの
は言い換えれば、「その中の一つ一つは他の全てと切り離せない関係にある」ということでもあります。
従って、悟りの状態に備わっている全側面の中のどれか一つ、例えば先ほど取り上げた「今ここに在る
モノをありのままに見ている」という側面とか、あるいはまた「絶対的な無為の中にある」という側面と
かを体現することはそのまま、悟りの状態に備わっている全側面を体現することとイコールになり
ます。
が、これはあくまでも理屈の上での話であって、理屈どおりに事を成り行かせるのは中々に難しいと
いうのもまた事実です。つまり「一つの側面」を体現することだけで「全側面」を体現するという(ある
意味できすぎた)結果を引き出すことは不可能ではないものの、非常に難しいということです。それが
やれるのは天才だけかも知れません。
ヴィパッサナー瞑想の実習者の多くが、サマタ瞑想と呼ばれる「心を静止させるための瞑想」をも併せ
て行っていると言われるのは、そのためだと思います。

http:// 

 

悟りに直結している“今”に在る状態

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月15日(水)04時02分45秒
返信・引用
  「悟りに直結している“今”に在る状態」について考えてみたいと思います。
このように申し上げると、「悟りに直結していない“今”に在る状態」なんてものがあるの
か?といぶかる向きもあるかも知れませんね。私の見解では「イエス」です。
「“今”に在る状態」という大きな枠がまずあって、その中の一部に、ある意味特殊なもの
として「悟りに直結している“今”に在る状態」なるものがある、と私は見ております。
この、「悟りに直結している“今”に在る状態」とは一言で申せば、(語の厳密な意味にお
いて)心を過去にも未来にも向けてない状態のことです。従って心を過去や未来にちょっと
でも向けたら、ここに言う「悟りに直結している“今”に在る状態」からはハズレてしまい
ます。が、悟りに直結している、という前提の付かないより広い意味における「“今”に在
る状態」からは、そのようにしたとしてもハズレるわけではありません。
心を過去や未来に向ける行為それ自体は他ならぬ“今”においてなされるものだからです。
我々が心を過去に向けるのは常に“今”です。我々が心を未来に向けるのもまた常に
“今”です。それを考えますと、心を過去や未来に向けたからといって、広い意味におけ
る「“今”に在る状態」からはハズレていることにはなりません。が、繰り返しになります
がそれは、「悟りに直結している“今”に在る状態」からはハズレてしまうのです。
その状態に該当するか否かを分ける基準は、心を過去もしくは未来に向けているか否かに
あるのですから。ちなみにこの基準に照らしますと、心に何かを感じることさえも、ほん
の微かであるとはいえ心を過去に向ける行為として退けられてしまいます。

私は思います。
心を過去や未来にちょっとでも向けたら「“今”に在る状態」からハズレてしまうという見
方にも、心を過去や未来に向けたからとてその行為それ自体は“今”のものであるがゆえ
に「“今”に在る状態」からハズレているとは言えないという見方にも、どちらにも理があ
る、と。どちらも、それぞれに正しいのです。
が、ここでは「“今”に在る状態」は「“今”に在る状態」でも「悟りに直結している“今”に
在る状態」を取り扱っていますので敢えて、前者の見方を取っているわけです。

以上からもお分かりのように、“今”というものを「悟りへの入り口」として捉える場合に
限っては、行雲さんのおっしゃる、いわゆる「オールインワンの今」すなわち過去と今と未
来の全てが含まれている今を“今”としては扱わず、いわゆる「ワンインワンの今」すなわ
ち今以外のものは含まれていない今のみを“今”として扱うことになります。
時間を一本の線で表すとしたら、行雲さんのおっしゃる“今”とはその線全体を指してい
るように受け取れますが如何でしょうか?私が取り違えている可能性がありますが、いず
れにしても、「悟りへの入り口」として私が提示している“今”とはその線上の一点を指し
ていることだけは間違いありません。
より正確に申せば、時間という名の一本の線に対して垂直方向に位置してもいるもの、と
いうことになりますが、ここではまだその話は唐突かも知れません。

http:// 

 

訂正

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 6月14日(火)15時57分32秒
返信・引用
  > No.27[元記事へ]

自己レスです

> ただ一点 補足になればいいのですが
> 「日常居る(と思ってる)世界→今ここ→日常世界」と行って戻っても
> その間も変わらずこれはたしかに私だというアイデンティティーは連続されてるんですよ
> え?何処にも無いのに?
> はい 一切非連続な何かに全面切り替わって戻っても連続してるんです

ん?
アイデンティティーの連続とか書きましたけど訂正します
あれは私なんでしょうか?

まあ私でないけどオリジナリティーは続いてると・・・うまくいえません ごめんなさい
 

Re: 行雲さんへのお返事になるかどうかは別として

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 6月14日(火)08時56分31秒
返信・引用 編集済
  > No.26[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

横から失礼します
OIVISといいます はじめまして

> でも、幻想に過ぎない個人の存在の有無と、絶対的存在である「いまここ」の存在の有無を、
> 同じ土俵上で語ろうとすること自体が、ナンセンスだと私には思えます。

そう そのナンセンスに尽きるかも知れませんね客観的にもかみ合わないと思えます

ただ一点 補足になればいいのですが
「日常居る(と思ってる)世界→今ここ→日常世界」と行って戻っても
その間も変わらずこれはたしかに私だというアイデンティティーは連続されてるんですよ
え?何処にも無いのに?
はい 一切非連続な何かに全面切り替わって戻っても連続してるんです
 

行雲さんへのお返事になるかどうかは別として

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月14日(火)03時07分16秒
返信・引用
  “今”には何かが存在するために必要な時間幅が全く無いと申し上げましたが、その何か
の中には当然ながら、この私も含まれております。時間幅が皆無な“今”においては、こ
の私でさえも存在できないわけです。
従って、この私が“今”に生きるなんてことは有り得ません。それは例えばの話、この私
が溶鉱炉(ようこうろ)の中で生きるなんてことは在り得ないのと同じです。
この私が溶鉱炉の中で生きるためには溶鉱炉の中にこの私を置く必要がありますが、溶鉱炉
の中にこの私を置いたとたんに、この私は消えて無くなります。
ちょうどそれと同じように、この私が“今”に生きるためには“今”にこの私を置く必要が
ありますが、“今”にこの私を置いたとたんにこの私は消えて無くなります。
従ってもし“今”に生きている何かがあるとしたら、この私ではない別のものです。ここに
言う「この私ではない別のもの」とは、心(顕在意識から潜在意識・無意識までも含めた心)
に属さない何か、もしくは真我という名の「赤の他人」です。

つまり“今”とは、この私とソレが入れ替わる場所でもあるわけですが、その入れ替わりを
この私が知ることはできません。ちょうど、夢の終焉において、寝床に居る私の覚醒を夢
の中の私が知ることはできないのと同じように。
“今”とはそういう場所でもあります。
 

道を聞く

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 6月13日(月)18時18分12秒
返信・引用 編集済
  昔道をきいた人の中には指一本立てた人もあったし
肘燃やしちゃった人もあったし
どちらも中々痛い目に遭って結果は道に到ったのでしょうが
肘に灯明の熱誠は人として忘れたくないものですね

さて片や 指の小僧さんの方は今スカッと一本奇麗に落ちた自覚があれば良いのですが・・・
 

(無題)

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月13日(月)08時05分26秒
返信・引用
  今は無いと私が申しますのは、今というものを心に置いている間は今に生きることはでき
ないということを言うための、一つのショック療法的な効果を狙った面もあります。
今に生きてる状態を目指している時、我々は未来を見ています。自分が今に生きてると
自分で分かっている時、我々は過去を向いています。
我々の中から、過去も今も未来も三つとも消えてしまっている時、我々は真の意味におい
て今に居ます、あるいは今に生きています。過去や未来と同じように今さえも、心の中か
ら放り出さねば、我々は真に今に生きることはできないということを言うために、わざと
ああいう言い方をした面もあるのです。
この後、投稿できる可能性があるのは、へたをすると夜中の十二時ぐらいになりそうで、
中々世の中うまく行かんものだなあと思っているところです。
 

さっきの続きです

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月13日(月)02時32分26秒
返信・引用
  前の投稿の繰り返しになりますが、「今自分の見ているモノは有るように見えるが本当は
無い」というヒラメキが向こうからやって来る可能性があるのは我々が“今”においてモ
ノを見ている時です。
この、我々が“今”においてみているモノというのは、あなたがおっしゃるように実際は
脳内映像であり、目からの情報が脳に伝達されたものですので過去に存在したモノの「写
し」だとも言えますが、それでも前述の事実に変わりはありません。我々が今見ているの
は実際は過去に存在したモノの「写し」であることは事実だとしても、その「写し」それ自体
は“今”のものに他ならないわけですから。

ついでながら、「今自分(たち)の見ているモノは有るように見えるが本当は無い」というよ
うなことは仏教のみならず、量子物理学においても言われることがありますが、表面的に
は言ってることは同じでも、その中身はまるで違うということ、これまでの話からお察し
いただけたでしょうか。
私の見解では、仏教で前述のようなことが言われる場合、その背景にあるのは「“今”には
可視のものであれ不可視のものであれ、モノが存在するために必要な時間の幅が全く無い」
という事実です。量子物理学では、そういうことには言及していないはずです。

今回の私の回答が不十分でしたら、またご質問いただけると有り難いです。
それから最後になりましたが、オイビスさんからのはげましのお言葉には心より感謝申し
上げます。
 

モノあるいは生命の存在する場所が無であるというのは知的な推量による抽象論ではない

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月13日(月)00時21分18秒
返信・引用 編集済
  我々にとって“今”(“いまここ”でも良いですが)においてモノを見るということは、心
を過去や未来に往ったり来たりさせずにモノを見るということに他なりません。これにつ
いては、これまでの私の話からもお分かりでしょう。で、心は過去と未来の二方向以外に
は動くことができずまた、動いている間だけしか存在を保っていられませんのでそれは、
(“今”においてモノを見るということは)、心を脇に置いた状態でモノを見るということ
なのでもあります。

さて“今”においてモノを見ると言えば我々は、“今”においてモノを見ている時、その
モノが有るとも無いとも言うことができません。そのモノが有るとか無いとか言う心が、
そこでは脇に置かれているからです。心が脇に置かれている中でどうして我々は、何かが
有るとか無いとか言えるものでしょうか。言えるわけありませんよね。我々の中で、何か
が有るとか無いとか言う主は心しか居ないわけですから。
“今”ではなく「今の近似域」(その意味は既に説明しました)においてモノを見ている時で
あれば心は脇に置かれていませんので我々は、そのモノが有るとか無いとか言うことがで
きます。が、ここで指摘しておきたいのは、そこにおいて我々が見ているのは、“今”に
おいてモノを見ている時とは異なり、モノそれ自体ではなく心の中のモノであるという事
実です。ここに言う心の中のモノとは、感覚(心の感じる働き)が捉えたモノと言い換える
こともできます。「今の近似域」においてモノを見ている時、我々が見ているのはその心の
中のモノであってモノそれ自体ではありませんので、モノが有ると言うにせよ、無いとい
うにせよ、真実味に欠けるわけです。
モノそれ自体を見ている時の我々は、とどのつまりは“今”においてモノを見ている時の
我々は、繰り返しになりますが、心が脇に置かれていますのでそのモノが有るとも無いと
も言うことができません。そこでは我々の側からモノの有無をウンヌンすることはできな
いわけです。
「あの投稿」の後あなたからいただいた投稿を読みますと、それぐらいのことは言われなく
ても分かっておられるようにも見受けられますが、ここはあなた以外の方々も訪れる掲示
板であり、その方々に対して私の見解をなるべく分かりやすくお伝えする場でもあります
ので、「そんなこと言われんでも分かってるわい」とはおっしゃらないで欲しいですね。
話は戻りますが、モノそれ自体を見ている時すなわち“今”においてモノを見ている時の
我々はモノが有るとも無いとも言えない、早い話がモノの有無を認識できないこと前述の
通りですが、もう一つ申し添えておかねばならないことがあります。
それは、「今自分の目に映っているモノは有るように見えて本当は無い」というヒラメキが
向こうからやって来るのもまた、モノそれ自体を見ている時すなわち“今”においてモノ
を見ている時だということです。
我々は誰でも「今自分の目に映っているモノは有るように見えて本当は無い」ということ
を知的になら知ることができます。次のような三段論法によって。
①モノが存在している唯一の時間は“今”である
②しかるに、その“今”には何かが存在するために必要な時間の幅が全く無い
③ゆえに、今自分の目に映っているモノは有るように見えるが本当は無い。
が、こういう三段論法を通さず③で出されたのと同じ結論に、ヒラメキによって一気に達
し得る可能性があるのが、我々がモノそれ自体を見ている時なのです。

もちろん、「今自分が見ているモノは有るように見えて本当は無い」ということがヒラメ
キによって分かったからと言って、その時目に映っているモノが突然消えて無くなるわけ
ではありません。当たり前の話ですがそんな場合でも、目に映っているモノは依然として
そこに有ります。ただそこでは、目に映っているモノの存在は(我々の意識の中で)失われ
ます。
禅宗の人が時たま使う「モノが有りながらに有りつぶれる(存在を失う)」という言い回しは
、色即是空という言葉と同じく、その辺りの消息を表しているものと思われます。これは
私の個人的な解釈に過ぎないのですけれども。(いや、その言葉の本当の解釈はこうだよ、
という方がもしいらしたら、ぜひ訂正お願いしたいですね)。
いずれにしましても以上のようなわけで、我々の目に映るモノ、あるいは「生命」の存在す
る場所は無であるという結論をあなたのように、(知的な推量によって引き出された)抽象
論と一概に決め付けてしまうのは間違っているわけです。(つづく)


 

お返事遅くなりました

 投稿者:中島タロー  投稿日:2011年 6月12日(日)23時00分45秒
返信・引用
  行雲さんへのお返事です。

> なるほど…
> 「いまここ」を意識した時点で、それは既に過去の事象である。…と言った意味なのでしょうか?
> たとえば目からの情報が脳に伝達されるまでには時間がかかりますし、それを心が認識するまでには更に時間がかかりますし…そんなことは当然ですが、そのような意味でおっしゃっておられるのですか?
> まさか、そんなくだらない物理的現象の、化学反応の時間的経過の意味合じゃないですよね?
>
> 「いまここ」が無いのなら、生命の存在する場はどこなのでしょう?…「無」ですか?^^
>
> そのような抽象的な議論にはあまり興味もありませんが、乗りかけた舟ですので、明確なお答えをお願いします。


お返事遅くなりました。昼間は仕事で時間を取られ、夕方以降は私用で時間を取られ、という日がこ
このところ続いたものですから…。それとあなたからの問いが即答しづらい問いであったことも、お
返事が遅れた理由の一つではあります。即答しづらい、と申しますのは、自分が理解していることを
言語化しにくいという意味も含めてのことなんですけれども。それにしても、「もうええわ」的なメ
ッセージをいただいた時は参りました。私としては、これに懲りてほしくないんですけどね。そう言
いながら、また懲りさすようなことをせんとも限らん私ですからあまり強くは言えないんですけれど
も。本題に入りましょうか。

「いまここ」が無いのなら、生命の存在する場所はどこなのでしょう?…「無」ですか?
ということですが、ここに言う生命という言葉が、例えば霊的な存在とか気とか、この現象世界の中
に存在しているもののことを指しているのでしたら、「その通り」とお答えいたします。
この現象世界の中に存在しているものと言えば、我々の肉眼に映るモノもそのお仲間ですね。この後
すぐするつもりの次の投稿では、我々の肉眼に映るモノは存在しているように見えるが本当は存在し
ていないという話をさせていただきます。取り上げる対象を、生命(前述のような意味での生命)では
なく我々の肉眼に映るモノとしましたのは、その方が話がしやすいからです。
この話を通して、前述のような意味での生命もまた存在しているかのように見えて本当は存在してい
ないということにまで思い至っていただければ有り難いのですけれども…。
 

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