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 投稿者:行雲  投稿日:2012年11月10日(土)18時18分11秒
返信・引用 編集済
  HP再開ありがとうございます。

『マインド自動浄化法』 早速読ませていただきました。
とても素晴らしい内容です。

改めて「今ここ」とは、「見る者は見えず、聞く者は聞こえず。」の当の本体、真我そのものの存在している場だと思います。
私の理解している真我とは、あなたの言う「裏の領域の意識」そのものであり、それはまた肉体とマインドという個々のフィルターをまとった「表の領域の意識」の、フィルターを取り払ったときの意識でもあります。
 

映画「のぼうの城」

 投稿者:PAPA  投稿日:2012年11月10日(土)12時15分27秒
返信・引用
  HP再開おめでとう御座います。
こちらの近況替わりにですが、
今月やっと2年越しの公開になった映画「のぼうの城」、
お時間在る時に是非観に行って下さい。
最後のエンドロールに私の名前も出てますので、よろしくお願いします。

https://sites.google.com/site/mitsunorin00/

 

来年もよろしくお願いします

 投稿者:Pメール  投稿日:2011年12月31日(土)06時13分25秒
返信・引用
  ご無沙汰してますが、最近少しの息抜きのまにまにこう言う物を描いたりしながら
色々考える一年でした。
http://youtu.be/qiKhQyrXX4o
達者で居たらまた来年も宜しく。

http://www.mitsunorin.com/

 

拝読一礼

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 7月 4日(月)16時07分48秒
返信・引用
  > No.73[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

敬服を以て一礼いたします
 

そう言えば

 投稿者:pメール  投稿日:2011年 7月 4日(月)04時43分19秒
返信・引用
  アーッ!って大声出した時大抵そーか。  

Re: 追加です。

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 7月 4日(月)03時01分42秒
返信・引用
  > No.69[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

> で、そのような感覚に気付いてくると、通常は他愛のない些細な出来事との遭遇が、やたら感動的に、「全ては意味有りの出来事」になってきます。そのモノとの同一意識を分かち合ってると言うか…
>
> たとえば、田舎道をドライブ中に立ちションをしたくなって道端に車を停めて、イザ一物を出そうとしたら、小さな一輪の野草の花に目が止まり「お~、お前愛しい~!元気かい?」的な感動を覚えたり、たとえばションベンが一匹のアリさんにひっかかり、アリが逃げ惑う姿を見て、「お~、我が同胞、ゴメ~ン!チョット待って、飴やるから。」的な親近感を覚えたり…

行雲さんが先に上げてらっしゃった体験の話も この素晴らしいお話も
お人柄まで偲ばれて 何度も味わわせて頂きました
共感とともに 年々そう言うピュアさを無くしてきてたかもしれないと知らされたりもしました

この掲示板で私が書き込ませて頂いた「今ここ」の感想は なまじ「今ここ」という題字があるから紛らわしくなってるだけで
行雲様が切り取って示して下さった事とは別の事を書いてしまっているのかもしれませんね
 

「意見」はありません

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 7月 4日(月)02時22分49秒
返信・引用 編集済
  > No.69[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

まず 最初から行雲さんは

>他人の体験を自分が追体験することは不可能です。
>自分の体験を他人に追体験してもらうことも不可能です。

>したがって、私の表現も「それ」の私的解釈の、私的語彙での表現でしかありません。

と言うご主旨で対論は平行線である事を告げていらっしゃいます
更に申しますと「今ここ」はこうであると言う話は「意見」のつもりでなくここに参加させて頂きました

以上の理由で行雲様の貴重な体験談に対する味わいはあっても意見はありません 悪しからず

ただ 上記の引用についてのみ意見を言わせて頂きますと
仰って居られる「他人に追体験出来ざるもの」は「人の人生」です
対して「いまここ」をふくむ「真理」というのは
何時の時代に何処で生れて どう「それ」に立ち会おうと
「1+1が必ず2」であるように必ず「ひとつ」であるものを「真理」と言うものではないでしょうか?

それは
一(中心)なる生命から発した個々の放射光線の進行たる「人生」は必ず進行方向に於て他と抵触(追体験)しない それがおのおのの人生体験であるのに対して

「真理」とは夫々の出発した大生命と言う基点の方角に属するものだから必ず「共通」してくるのではないでしょうか?

真理の発見は
「私の意見ということでならば」 決して十人十色の気付きようと言うものでは無いと思っています
であればこそ古今東西のそこここに同じ宝石の輝きとして残されて来たり紐解かれたりして来られたのではないのかなと・・・

なお これは「今ここ」に関する「意見」ではなく 対論の不成立に関する所感でした
 

Re: 今回だけ

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 7月 2日(土)19時28分56秒
返信・引用
  > No.67[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

あ 丁度編集したのとお返事頂いたのが行き違ってしまったようです
すがしい文面 ゆっくり拝読 味わわせて頂きます ありがとうございます
 

Re: 今回だけ

 投稿者:OIVIS  投稿日:2011年 7月 2日(土)17時09分20秒
返信・引用 編集済
  > No.61[元記事へ]

行雲さんへのお返事です。

すみません 一つ理解の為に質問をさせてください

> 私の感覚で言えば、自分という個のいない「全てはただ圧倒的に存在している。」の感覚と同義だと思います。

それは どちらかと言えば流体や形ないなにかじゃなく
堂々とズシリと具体的な形ある存在感だったのでしょうか?

失礼しました
ひとさまにものをお尋ねする礼儀として先ず自分からと言う事を忘れておりました
私の場合は物事の発する前の無形の 正に今湧いて止まない光 生命 と言う様な実質です
 

的は

 投稿者:Pメール  投稿日:2011年 6月30日(木)16時12分3秒
返信・引用
  行雲さん

的は射ましょうぜ。
まさに「今ここ」にふさわしい。

http://www.mitsunorin.com/

 

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